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小沢健二さん。なじみのある世代は30代後半くらいからと思いきや、
意外なことにコンサートでのお客さんの様子も
その世代は「この世代が中心」
と言えるような感じはありません。
そう、赤ちゃんを抱っこバンドで抱っこしたママもいれば、
小学生の子供連れの家族も。

もし小沢健二さんがあの時、
日本を離れてニューヨークに旅立っていなければ、
こんな景色はおそらく見ることは
なかったのではないでしょうか。
あの女の子みたいに
かわいらしい感じの王子様キャラの小沢健二さんは今年で50才。
どんな素敵な大人になって
日本へ戻ってくる気持ちになったのでしょう。





そのあたりを今回のたった4回だけ
コンサートのレポートを含めてお伝えします。



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小沢健二さんとは?渋谷系とは何?音楽やファッションを取り入れるアイテムは?



現在に生きる人達にとって、
ファッションの流行を知るのも
とにかくスマホ1つでなんでもわかってしまう。
そんな世代には考えられないかもしれません。でも
小沢健二さんたちが学生時代を送っていたころは、
情報を手にするには、
その場所に行くしかない
そんな時代でした。


そんな時に、
おそらく渋谷下北沢中目黒あたりに
アンテナを張っていた若者がいました。
それが小沢健二さんの仲間達です。そう。
そのことを言う時に使う「渋谷系」と称される人達です。
当時、周囲がブランドを持ち歩いていた頃、
まったく違う、
フレンチカジュアル風なおしゃれをして
友達と歩いている姿は、どこからみても特別。
そんなおしゃれにこだわる若者達の中に
小沢健二さんもいたのです。


でも実は小沢健二さん自身は「渋谷系」
といわれることに違和感をもっていたと後に語っています。


というのも、小沢健二さん
出身は神奈川県相模原市、そして川崎なのです。
のちに共にバンドを組み
フリッパーズギターとしてデビューする
小山田圭吾さんは、実家は世田谷です。
どちらかと言えば、服装のこだわりが強かったのは、
小山田圭吾さんの方ではないでしょうか。
その彼との付き合いの中で、小沢健二さん
ファッションに目覚めていったのかもしれません。


では、「渋谷系」という言葉まで生み出した小沢健二さん
どうしてなのかわかりますか?
それは、小沢健二さん小山田圭吾さんは、
私立和光学園という中学で出会います。


こちらの学校は、よく芸能人が
「お受験」で受験する学校で
幼稚園からすでに
芸能人の子供さんで1クラスできるくらい芸能人の二世が通う幼稚園です。
その幼稚園から大学まで
ずっと和光学園という人もいるのですが、(ハマ・オカモトさんなど)
小沢健二さんはお兄さんに続いて中学から入学しています。
多分そこが「渋谷系」に至る出発点だと考えられます。
和光学園は、とにかく自由。制服も学則もありません。
なので放課後の清掃も
やりたい生徒だけがやればいいという
かなり寛大な学校です。
なので自由の中で自分の興味のあることに
とことん夢中になる生徒が
たくさんいるのが特徴の学校です。




その中で小沢健二さんは、音楽にであい、
友達がみんな世田谷目黒にいるため、
自然と遊ぶ場所が渋谷下北になって行ったのでしょう。
しかも学業の面でもかなり優秀だった小沢健二さんは、
和光を中学でやめ、神奈川県立多摩高校へと入学します。
こちらの学校は、神奈川県ではかなり偏差値の高いところです。





そこで今度は勉学にも励み、大学へと進みます。
現役の時には、早稲田大学に合格していますが、
進学せず浪人して東京大学文科Ⅲに入学しのちに文学部へと進みます。
ちなみに東京大学は、入学した時は、文科Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、と分かれています。
そして3年次に学部が
決まるというシステムになっています。
その文Ⅲに入学したことも、
のちのちの小沢健二さん渋谷系に大きく影響しまいきます。
というのも、あの赤門が東大というイメージが強いかもしれませんが、
文系の東大は京王井の頭線「駒場東大前」になります。
井の頭線は、下北沢渋谷もどちらも駅があります。
なのでこれでいつでも渋谷に行く環境となり、
そこで文化を吸収していくのです。



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もてはやされる自分に別れを告げる



もちろん。デビューして数年の「渋谷系」の王子様としての小沢健二さん、
NHKの紅白歌合戦にも出場したほど人気者になります。
ですがその後、
小室ファミリーの台頭や
B’Zの出現で徐々に活躍の場が失われ始め、
次第に自分の需要が
少なくなっていくことを感じ始めます。


そのこともあって、
ニューヨークに行くことを決意します。
おそらく小沢健二さん
家もドイツ文学者の父親臨床心理学者の母親との間に生まれ、
叔父は小澤征爾さんなど華麗なる一族に生まれ。
しかも本人も東大卒のエリート。
これまで自分の努力で
手に入らないものはないと思っていたのではないでしょうか。


しかし芸能の世界は
お客さんがいて初めて成立する世界です。
だんだん売上も落ち、
どうすることもできなくなってい自分を変えたい気持ち
旅立ったのではないでしょうか。
その時の気持ちを表した


「ある光」


~let’s get on board~


これは日本を発つ前の
最後の曲のキーワード的な言葉です。


この時、何かをつかもうとアメリカに行くことを決意し、
その気持ちを唄った曲です。
これまでにない力強さ怒りや悲しみで押しつぶされそうな自分に
言い聞かせるかのような曲。
そんな普通の人間的な感情をさらけ出したこの曲は、
今でも世代に関係なく人気があります。



ニューヨークへ



ニューヨークに行ってから
もう20年も経っているとは思えないほど、
いまでもCMソングになったり、
誰かがカバーしたりと、
あの時に作った唄は、
今でも色あせることなく歌われています。


ですがその長い間に小沢健二さんの人生観は、
かなりの変化がありました。
もともとアメリカ文学を専攻していた小沢健二さん
選んだ街がニューヨーク
そこはMelting potと呼ばれる
世界中の国々の人が暮らす街。


そこでイギリス人で
カメラマンでもあるエリザベス・コールさんと結婚します。
そして約3年近くの間、
発展途上国を中心に旅をする生活にでるのです。


そんな中から小沢健二さんが見出したもの。
自分の存在を知らない人の中で
自分らしさを見つけることとなっていきました。
ニューヨークでの生活の中でも、
大好きなアメリカの南部の音楽など
様々のスタイルの音楽を吸収していきます。


そして子供が生まれてからは、
自ら執筆活動も始めるようになります。
もともと文学少年で、
両親ともに文学に携わる家に生まれた小沢健二さん
自然に文学を始めるのも不思議なことではありません。


しかも子供が生まれたことにより、
子供の目線を強く意識するようにもなっています。
そして児童書籍といえば福音館という、
あの福音館からも本を出版しています。


さらに日本のアーティストの
「SEKAI NO OWARI」との親交が厚く、
共同で「フクロウの声が聞こえる」という曲を
発表しているほどです。
そうしてやがて日本へと帰国することになります。




日本へ戻る時






2017年。小沢健二さん
かつて通い詰めた渋谷宇田川あたりの
HMVやTower Recordsなどで
突然「流動体について」が発売されます。


お店のスタッフにもわからないように納品されるCDには
どのアーティストの名前も書いていなかったと言われています。
そのことが一斉にTwitterで拡散し、
17年の時を超えた小沢健二さんの曲が再び流れ始めます。



日本での最後の曲「ある光」
’JFK’とあるように、
曲はも戻って来たことの意味する
’東京’から始まっています。
「流動体について」
’間違いに気が付くことができなかったのなら’という
一節がありますが、
そのことをタモリさんに尋ねられると
ごく普通に「そうですよね」などと語っていました。


「間違いに気が付く」というよりも
「日本にいるだけでは知ることができなかった」
いう方が正しいのではないかと考えます。
小沢健二さん、それまでの普通にエリートのままではなく、
世界を見る目を持って戻ってきました。
そしてアメリカでの生活の中で
あらためて日本の良さにも気が付いたようです。



たった4回だけのコンサートと落ち着いた服装とグッズ&セットリスト






小沢健二さんの手作りです。






小沢健二さんは、
その後フジロックで一度フェスに参加し、
コンサートの「勘」のようなものを取り戻し、
今年に入って4回のコンサートを開催しています。
それは東京国際フォーラム大阪城ホール日本武道館、です。



若い頃の服装は、とにかく他の人とは違ったテイスト
しかしニューヨークから戻った小沢健二さんは、
どこかニューヨーカーのにおいのする
シャツにパンツというスタイルが定番の服装に変わっていました。
日本にやってきてから
「流動体について」
「アルペジオ」など、
新曲を加え「春の空気に虹をかけ」という
タイトルでの公演でした。


ステージが始まる前に驚いたのは、グッズです。
よく日本のアーティストでも
腕輪が発光するものなどが配られます。
それが小沢健二さんのコンサートでは、
いわゆるクリスマスツリーを覆う電球が
ところどころについているような電池式の
ネックレスのようなものが
グッズ売り場にありました。





ワイヤーで出来たそれを子供連れの家族は、
子供の髪飾りにしてみたり、
子供自身が形を作って遊んでいる姿が
すごく微笑ましいものでした。


そしてファッションにも
こだわりがある小沢健二さんだけあって、
他のアーティストには考えられないくらいの
Tシャツのバリエーションなど、
さながらブティックのようでもありました。





コンサートが始まると



Mステーションでも登場していたので
満島ひかりさんが来るのでは?
という期待がありました。
それが36人編成のバンドのメンバーの一人として今回は、
ツアーを回っているということ。


そして満島ひかりさんのイメージは女優さん。


しかしステージの上では唄う、踊る、パーカッションもする、
そして最後にはギターも演奏していました。
小沢健二さんの声に合わせた低い所から、
かなりキーの高いところまで歌いこなせる満島ひかりさん
実力を映像という画面ではなく直に触れて、
さすが同行している存在なのだと
思わず感動するほどでした。
もし、満島ひかりさんという存在がいなければ、
このステージの良さも半分になってしまうほど、
圧倒的なすごさを見た気がします。



観客参加型コンサートみんなで踊れる振り付け



次の曲が始まって、
なんとなく小沢健二さんが踊っている。
でもそこから無理に参加してというわけでもなく、
自然にみんなができるような振り付けが
ちょこちょこっとあります。
きっと自ら子供を持つことで「人に何かを教える」
みたいな感覚がもっともっとやわらかな意識に変わり、
いつのまにか踊っているスタイルでの動きとなっていきます。


こういったところも小沢健二さん
大きく変わったところではないでしょうか。
だれでも簡単にできる振りなので
見に来ていた子供さん達も
とても楽しそうで、
ピカピカなライトを王冠にして踊っていました。

「シナモン(都市と家庭)」
「涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)」
「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」
「その時、愛」



この4曲にお客さんが参加できる振り付けや、
コール&レスポンスが入っているのですが、
もちろん座ったままでもOK。楽しそうに
体を揺らしている人達もいました。

1 .INTO THE LIGHT
2 .君のそばにいるよ
3. 陽のあたる場所
4. 来るぞスリリング
5. めくばせのブルース
6. LADY FANKY (新曲)
7. オルフェンズの涙
8. 逢いたくていま
9. SNOW SONG
10 .飛び方を忘れた小さな鳥
11. Everything
12. BELIEVE
13. THE GLORY DAY
14. SUPER RAINBOW
15 HOPE & DREAMS
16. MAWARE MAWARE
アンコール
17. あなたにスマイル:)
18. LUV PARADE
19. つつみ込むように…
20. [ MISIA・楽天 ]





ステージの上に36人のオーケストラと小沢健二さんです。
とにかくぎっしりという感じの中で、
満島ひかりさんが動き回り、
のびやかな歌声が驚くほど
小沢健二さんの声との掛け合いもぴったり。
















小沢健二さんのライブのグッズ&セットリスト!服装や振り付けについて、最後に



小沢健二さんのコンサートの大きな違いは、どの年代の人が来ても
「楽しめる」という気持ちの強いものになってきている感じがします。
時に歌に振り付けを付けて子供に飽きさせない演出や、
グッズなど様々な面で進化したと言えると思います。


小沢健二さんの曲詩や本を解読するのは、なかなか難しい。
ですが、その場で楽しむコンサートを試みているということが
とにかく伝わって来る。そんな夜になりますので。


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